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There is no nature in the World. And all the things of this world are artificial.
Jul
22nd
Thu
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村崎 ブスを笑い者にすることだって、お笑い番組の企画の中なら普通に行われてるんだよ。でもそれは出演者がお笑い芸
人で、本人が笑われるのを前提で参加してる番組なんだから視聴者も安心して見ていられるわけで、それを無関係の一般人に対して、個人の意志や尊厳を無視し
て暴力的にやるのは誰がどう考えても完全アウトだろ。あのレベルで芸術というなら、そのへんのテロや無差別殺人や独裁や大量虐殺もみーんな芸術性を評価し
ないといかんだろうし、そういうのを芸術として楽しめのは明らかにオレみたいに性格と根性のひんまがった少数派だけだろう。どちらかというと今回の事件は
60年代アングラ芸術の影響というより、90年代の「電波少年」の影響の方が大なんじゃないかという気がするな。
Jul
21st
Wed
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女、37歳、博士課程中退。

> 1972年、京都府生まれ。
 両親と妹を含め4人家族。
 家族関係は幼少期よりずっと良好。父親はメーカーのエンジニア、母親は事務職で共働き。実家の生活水準はごく普通で姉妹ともに大学に進学した。両親とも組合員であったので労働組合の必要性や役割については若い頃から聞かされてきた。
 小、中学校とも成績は上位でいつも学級委員をつとめ、友人も多く交友関係は良好であった。高校は地元の有名進学校に進んだ。両親と同じような平穏な家庭をつくろうと思っていた普通の女の子だった。
 1991年(19歳)、地方の大学に進学、海洋生物学を専攻。
大学の海洋調査実習では女子であるという理由で調査船の航海には参加できずフィールドワークを積むことができなかった。
 1995年(23歳)、東京の大学の大学院に入学。博士課程に進み、研究者を目指すも専門分野の就職の機会に恵まれず、2000年(28歳)で博士課程を中退した。

<初職からの経験>
 1999年(27歳)9月、大学院在学中に専門学校の講師のアルバイトを開始した。
 2000年(28歳)3月、専門学校は春、夏、冬季の3期の休校期間があり、収入不足を補うため、情報通信会社に契約社員として就職した。
 2006年(34歳)に入り、情報通信会社の都合で担当業務が数年後に廃止されることが決まったことがきっかけで、個人加盟できる労働組合に相談した。
 同年、仲間とともに自分たちで労働組合を結成し、業務の廃止撤回を求めて団体交渉を開始した(現在も団体交渉を継続中)。
 2007年(35歳)3月、専門学校のアルバイトを退職。情報通信会社の契約社員専業となり現在に至る

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男、31歳、中卒、

おおまかな職歴:中学卒業→中華料理店・店員(正社員、4年)→相撲部屋・調理等(力士見習い、1年)→整体院・整体師見習い(アルバイト、1 年)→暴力団事務所・組員(2年)→露天商(5年)→建設会社・作業員(正社員、数カ月)→建設会社・作業員(登録型派遣=違法派遣、2年)→路上生活→ 年越し派遣村→現在、生活保護受給中/糖尿病の治療中

>1978年、北海道生まれ。
 両親、弟1人、妹1人と自分の5人家族。兄2人は先天性疾患で乳児期に死亡したので、幼くして弟、妹を含む3人兄妹となった。民間賃貸住宅で暮らしていた。
 小学校就学中に両親が離婚した。父母ともに子どもの引き取りを拒んだため、子ども3人は祖父母の世話になることになった。以後、祖父母が事実上の親代わりとなった。
 中学校を卒業(1993年、15歳)して就職した後は、自分が弟、妹の生活の面倒を見ることになった。
 最後の学校時代(中学)は、両親が離婚していたので何も楽しかったことはなかった。強いて言えば不良仲間だけが唯一話せる相手だったこともあり、不良グループが自分の居場所だった。
  父親はアルコール依存でいつも家族に当たり散らし、家出して愛人のところに行っていた。また、母親は子どもを嫌い、面倒を見なかったため、自分にとっては 祖父母だけが頼りであった。そのため、事実上の両親であった祖父母を父さん、母さんと呼んで暮らした。経済的には主に祖父母の年金などが頼りで生活は楽で はなかった。

<初職からの経験>
 1993年(15歳)、両親が離婚しており、生活が苦しかったため中学卒業後に、中学校による紹介で道内の中華料理店に就職した。常連の出前先に暴力団事務所があり、そこの組長から執拗に組員への勧誘を受けた。
 1997年(19歳)、暴力団加入から逃れるため、恵まれた体格を活かして相撲部屋に入門した。部屋では飲食店員の経験を買われて調理を担当した。ところが入門の動機が暴力団から逃れるためであったので、長続きせず1年ほどで辞めてしまった。
 1998年(20歳)から1年ほど、友人(暴力団員)の紹介で、整体院でアルバイトとして働いた。住み込みであった相撲部屋を辞めて以来住居がなく、友人のアパートに同居していた。
  1999年(21歳)、いつまでも友人のところに同居していては迷惑をかけると思い、その友人の紹介で暴力団事務所で住み込みのアルバイト(留守番係)と して働き始めた(この時整体院は退職)。それを2年ほど続けた。アルバイトの留守番係でも暴力団の構成員としての活動は拒めず、軽犯罪に関わったり、右翼 団体の運動員として働いた。
 2001年(23歳)、暴力団の活動には良心が痛み馴染むことができなかったので、転職を希望して組を辞めた。暴力団員を辞めるために小指を切断し、正式な離脱を図った。
 同年、暴力団を辞めてから、愛媛県にあった暴力団系列のテキ屋(露天商)の元締めのもとで、露天商に転職した。
この当時、「刺青師」の知人にお金を貸したが返済不能となり、借金返済の代わりに自分の体に刺青を入れてもらうことで解決をはかった。
 露天商として5年程度働いたが、暴力団員であった友人の自殺を機に 暴力団関係との絶縁を決意して露天商を辞め、北海道に帰省した。この時点で手持ち資金は5万円だけで、帰省の費用に充てた。
 2006年(28歳)、帰省後、北海道のハローワークで、埼玉県にある建設会社を紹介され、正社員として採用された。
地元にいた母親を訪ね、上京のための費用を工面してもらった。
 ところが、就職した建設会社で「指詰めと刺青」が発覚して居づらくなり、数カ月で自主退職することとなった。
 同年(28歳)、派遣会社に派遣社員として登録(28歳)し、建設現場に派遣された。ところが、2008年(30歳)に派遣先の建設現場での違法派遣が発覚して、事件になった。
この当時、未払い賃金の支給を求めて派遣会社とトラブルとなった。個人で交渉のうえわずかな賃金を受け取り、会社を辞めた。その後、ホームレスに近い状態にまでなった。
 2008年末の「年越し派遣村」に参加した。派遣村で、支援に来ていたある産業別労働組合の執行委員と出会い、NPOの生活困窮者支援グループを紹介され、支援を受けるためその会員になった。

Jul
20th
Tue
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「ホロコースト」に関する予備知識をえていたわたしにとって、普通より長時間のハリウッド映画、『シンドラーのリスト』をだまって観賞することは、ますま す大変な苦痛であった。「これも嘘」「あれも嘘」「こりゃひどい」の連続だったからだ。
 しかし、おどろいたことにはわたしの友人たちは、それほどに違和感をおぼえていなかった。わたしが問題点を指摘するとはじめて、「そういえばそうだが」 と同意はするものの、「いわゆる芸術的表現ではないか」などと反論するものもいたので、またもや先入観念のおそろしさを再認識せざるをえなかった。
 とくに細部を論じる気にはならないのだが、あの映画を見ていた元軍人で平和運動家の先輩は、つぎの点について明快に賛成してくれた。
 あの映画には、かつてのウィリアム・ホールデン主演の『第17捕虜収容所』のような、漫画的ドイツ人はあまり登場しない。そのかわりにやたらめったら、 ドイツ兵が無抵抗のユダヤ人を町中や収容所内で撃ち殺すシーンが、いやにリアルなモノクロ画面で何度もでてくる。映画のプラショフ収容所にもゲーツ収容所 長にも実在のモデルがあるそうだが、この収容所長などは、ユダヤ人収容者を子どもまでふくめて、ただのうさばらしにベランダから狙撃銃で射殺している。
 わたしは、元軍人の先輩にこう聞いて、賛成をえたのである。
「日本軍だってまけずおとらずの残虐行為をやっているだろうが、町中や人前で普段からバカバカ殺していたら、軍律がたもてないはずだ。誇張にしてもひどす ぎないか」
 この会話の直後、カナダのツンデルから航空便がとどいた。なかには、ツンデル自身がキャスターをしているFM放送の市民チャンネル、「自由放送」の録音 テープや資料カタログと一緒に、「シンドラーのリストは嘘と憎悪をあらわにした」と題するリーフレットがはいっていた。そこには、ワシントンの公文書館で 情報公開している航空写真などを材料にして、プラショフ収容所の当時の全体構造が再現されている。映画では、ゲーツ収容所長の公邸のベランダから収容所が 見わたせるようになっているが、実際の構造では、途中に丘の側面がはりだしていて、見とおしがきかない。だから、狙撃銃による射殺などは不可能だというの だ。
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nanasi @ Jul 19th 2010 1:29PM

リンク先のAppleアンテナ解説サイトの写真。

■比較対象の他社製品の写真の背景:
 薄暗くて寒色系の日の当たらない陰気な部屋のイメージ。

■iPhone4 の写真の背景:
 太陽がさんさんと降り注ぐ明るい暖色系の部屋のイメージ。

そもそも比較対象の他社製品の評価でアンテナをベッタリと隠すように手のひら全体で覆っているのも一目瞭然ですが、それ以上に、比較対照実験に見せかけた写真の背景を加工して姑息な印象操作をするのは、「技術」や「デザイン」の使い方を間違っているのではないでしょうか。

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ノキアの声明はアップルや iPhone 4 に直接言及はしていないものの、アンテナを手で覆うと感度が落ちる現象そのものは認めつつ、だからこそ「(われわれは) 携帯の自然な持ち方をちゃんと考えている」「(われわれは) 両立できないくらいならアンテナを確保できるデザインにする」。
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記者会見後の質疑応答では「(デモに使われた) BlackBerry Boldをいま持っているが、握ってもアンテナ減は再現できない。どんな持ち方をすれば減らせるのか」との質問もありました。ジョブズ回答は「場所によっては再現しない場合もある」。
Jul
19th
Mon
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konishiroku:


山中俊治の「デザインの骨格」 » いまさらながらiPhone 3Gのボディの秘密に気がつきました

上の写真は、3Gのプラスチックボディの内側です。よく見ると通常のプラスチック部品ではあまり見られないツールマーク(縞模様のような溝)が見られます。この溝は、ボディの内側をNC加工(コンピュータコントロールのドリルによる切削)した痕跡です。

ユニボディと言われるMacBook ProやAirは、アルミニウムの固まりから削って内面を作るので、ボディの内側全体がNC加工のツールマークに覆われています。これはiPADも同じです。しかし、プラスチックの部品の場合は、型に始めからかなり複雑な形状を作り込むことができるので、後から加工することは通常行われません。

にもかかわらず3Gのボディの内側は、全体の5分の一ぐらいの面積がツールマークで覆われていました。明らかに、一度、型を使って成形してから、その後にNCマシンにセットして、ドリルで内面の一部を削り込んでいるのです。

何故こんな二度手間をするのか。

答えは、デザインにあります。iPhone 3Gの背面はご存じのようになめらかな曲面で覆われています。多くのデザイナーはその曲面の精度に驚嘆しました。プラスチックは冷えて固まるときにゆがみやすく(専門用語でヒケと言います)、なかなかこうはいかないものだからです。ゆがみを少なくする最も確実な方法は、プラスチックを厚く作る事です。例えばマイティマウスにはとても分厚い樹脂が使われています。しかし携帯電話の場合はそうはいきません。薄さ、軽さは最優先事項ですから。

もうお分かりでしょう。アップルは、iPhone 3Gの見事につるんとした背面を作るために、まずはボディを分厚く成形しました。それから、必要なところだけドリルで削って薄くしました。電子機器メーカーの常識では、コスト的にあり得ないような手間をかけることによって、極薄のしかし完璧な曲面のボディシェルを実現していたのです。

美しい形を実現することへのアップルの執念に、いまさらながら脱帽。

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山中俊治の「デザインの骨格」 » いまさらながらiPhone 3Gのボディの秘密に気がつきました

上の写真は、3Gのプラスチックボディの内側です。よく見ると通常のプラスチック部品ではあまり見られないツールマーク(縞模様のような溝)が見られます。この溝は、ボディの内側をNC加工(コンピュータコントロールのドリルによる切削)した痕跡です。

ユニボディと言われるMacBook ProやAirは、アルミニウムの固まりから削って内面を作るので、ボディの内側全体がNC加工のツールマークに覆われています。これはiPADも同じです。しかし、プラスチックの部品の場合は、型に始めからかなり複雑な形状を作り込むことができるので、後から加工することは通常行われません。

にもかかわらず3Gのボディの内側は、全体の5分の一ぐらいの面積がツールマークで覆われていました。明らかに、一度、型を使って成形してから、その後にNCマシンにセットして、ドリルで内面の一部を削り込んでいるのです。

何故こんな二度手間をするのか。

答えは、デザインにあります。iPhone 3Gの背面はご存じのようになめらかな曲面で覆われています。多くのデザイナーはその曲面の精度に驚嘆しました。プラスチックは冷えて固まるときにゆがみやすく(専門用語でヒケと言います)、なかなかこうはいかないものだからです。ゆがみを少なくする最も確実な方法は、プラスチックを厚く作る事です。例えばマイティマウスにはとても分厚い樹脂が使われています。しかし携帯電話の場合はそうはいきません。薄さ、軽さは最優先事項ですから。

もうお分かりでしょう。アップルは、iPhone 3Gの見事につるんとした背面を作るために、まずはボディを分厚く成形しました。それから、必要なところだけドリルで削って薄くしました。電子機器メーカーの常識では、コスト的にあり得ないような手間をかけることによって、極薄のしかし完璧な曲面のボディシェルを実現していたのです。

美しい形を実現することへのアップルの執念に、いまさらながら脱帽。